所感 仏教

私の所感です。

仏教を実践する上で、いつも心に刻む事。

(1)仏教の根幹
Sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā
何物も、私、私の物と執着するべきでは無い

絶えず、この言葉を当てはめながら、仏教を学び、仏教を実践する。

(2)仏教の土台
仏教の土台は、慈悲です。
慈悲には、捨-Upekkhā(冷静に観察)という理性が必要です。
慈しみと理性を育て、生命として人格(心)を完成させる事。

慈悲が育つと、三学の戒が自然と完成します。
五戒(戒)は仏教の土台であり、その上に禅定(定)という骨組みが組み立てられ、悟りの智慧(慧)を発見します。
よって、仏教の土台は、慈悲です。

智慧-paññāが育つと、捨-Upekkhāが育つは、よく似ています。

(3)真理は、心と身体にあります。
24時間、絶えず途切れることなく、心と身体を観察して、

心が揺れ(感情)た瞬間に、揺れ(感情)を捨て、
揺れない心を完成させる事。
※真理は、心と身体にあります。 感情の揺れが苦の始まりです。

(4)仏教は、捨-Upekkhā(冷静に観察)
仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」
仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。


心に生ずるものは何であれ、手放す様にして下さい。
賞賛や見返りを期待してはいけません。

もし、少しだけ手放すのなら、
貴方は、少しだけ平安を得るでしょう。

もし、多くの物を手放すのなら、
貴方は、多くの平安を得るでしょう。

もし、あらゆる物を手放すのなら、
貴方は、完全な平安と自由を知るでしょう。

その時、
この世界に於ける貴方の戦いは、終わりを告げる事になるのです。

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■仏教について

仏教は、
人では無く生命として、どの様な心を育てれば、生命として幸せになれるか
と、言う教えです。

≪仏教はとてもシンプル≫
(1)慈しみと理性を育て、生命として人格(心)を完成させる事。
※慈しみとは、どの様に生きれば良いか?という、仏教の答えです。

(2)24時間、途切れることなく、心と身体を観察して、
 心が揺れ(感情)瞬間に、揺れ(感情)を捨て、
 揺れない心を完成させる事。
※真理は、心と身体にあります。 感情の揺れが苦の始まりです。

主観的な思考、妄想、Papañca(捏造)を捨てて、ありのままの心と身体を観察して、集中(禅定)して、真理(苦、無常、無我)を発見(智慧)する事。

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≪人格者≫
人格者とは、「慈しみ」と「理性」を完成した人。
の様な気がする。

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≪慈悲と理性は一対≫
慈悲(慈悲喜捨)の心には、理性が必要です。
慈悲に理性が同居していないと、感情が妄想を始め、心が暴走し、心が感情に流されます。
捨とは、理性です。

≪捨とは、慈悲の土台≫
捨と和訳された、Upekkhāとは、「落ち着いて客観的に観察する」という意味で、理性があり、偏らない平等の心です。

ですから、
捨という理性の土台の上に、慈と悲と喜が育てば、
慈悲の感情で心を揺らすことが無くなり、
上目線、やってあげた、等の
自我が無い自然な慈しみの心が育ちます。
これが、本当の慈悲だと思います。

また、
慈悲を実践していく中で、自然と捨の心が成長している気がします。

「捨が育つ」と「智慧が育つ」は同義語と言っていいほどです。

≪慈悲は、仏教の土台≫
・慈悲は、仏教の土台であり、全ての仏道修行に於いて基礎となるものです。
・慈悲で「心」を育てなければ、いくら頭で「真理」を理解しても、真理の「智慧」を発見できず、悟る事は出来ない。
・慈悲が育てば、三学(戒定慧)の戒が育ちます。 正しい戒が育たないと、正しい禅定が得れられず、言葉で真理を理解しても、悟る事はできません。

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≪精進とは≫
・苦、渇愛、無明を乗り越える事。
・無明を、徹底的に、叩き潰す。蹴飛ばす。
・無明を、叩き潰せなければ、
 無明を引きずって、前に、進む。
 そのうち無明が、諦めて離れていく。

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≪捨とは、慈悲の土台?≫
捨-Upekkhāは、慈悲喜の土台ではないか?
つまり、
捨は、慈しみの土台では、ないか?

捨の土台に、慈、悲、喜が、正しく育つ様な、気がします。

捨とは、upekkhā 「平等心」です。

Upa という接頭語には、
「落ち着いて、包括的に」という意味があり、
それに ikkhati
「見る、観察する」が合わさった動詞
upekkhati の名詞形がupekkhā で、
「落ち着いて客観的に観察すること」というような意味になります。
一方的に偏らず、偏見がない心です。

その意味を見てもわかるように、
upekkhā と智慧はかなり近いのです。

「捨が育つ」と「智慧が育つ」は同義語と言っていいほどです。

よって、捨とは、理性の事です。
その偏りの無い、平等な心の上に、
慈悲喜が育たないと、慈しみの心が感情の妄想になります。

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≪所感≫
・自分も一切の生命と同じ。
・仏教は、信仰する物ではない。
・いつ死んでも、おかしくない。
・生きる事は、苦以外無い。
・真理は、自分の心と身体にある。
・心の揺れを捨てる事が、幸せ。

≪自分も一切の生命と同じ≫
自分が、他の生命を、くずだと思えば、自分も同じくずの仲間。
自分が、他の生命は、素晴らしいと思えば、自分も同じ素晴らしい仲間。

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