2012年12月31日月曜日

捨-Upekkhā 5つの質問

2012.12.16(日)
日本テーラワーダ仏教協会の関西月例冥想会(三田:マーヤーデービー精舎)にて
アルボムッレ・スマナサーラ長老に捨-Upekkhāについて5つ質問をさせて頂きました。

1)「心の揺れを捨てる。」事が、捨-Upekkhāですか。
2)「心の揺れを捨てる。」事は、理性ですか。
3)慈悲の土台は、捨-Upekkhāですか。
4)「心の揺れを捨てる。」事は、執着を捨てる事ですか。
5)仏教で言う幸せとは、
  心の揺れを捨てて、冷静に観察し、発見する事。ですか。

2012年9月11日火曜日

精進とは

「充実感こそ最高の財産」(P83)より

精進(viriya)とは

お釈迦様は、常に「瞬間を失ってはいけません」とおっしゃいました。
パーリ語で「Khanaṃ mā vo upaccagā」と言います。
これが、精進の本当の意味です。

精進とは、歯を食い縛って、只、闇雲に頑張ると言う事では、ありません。
常に、目覚めている事を言うのです。

2012年9月10日月曜日

捨:忍耐

「充実感こそ最高の財産」(P74~P70)より

仏教に「忍耐」と言う言葉があります。
パーリ語でkhanti(カンティー)と言います。
サンスクリット語では(クシャーンティ)と言い、
ヒンドゥー教の人々は「クシャーンティ、クシャーンティ」と言って互いに挨拶を交わしています。

では「忍耐」とは何でしょう?

日本人の間では昔から、苦しい事や辛い事を我慢して耐え忍ぶ事を忍耐と言っている様ですが、仏教ではちょっと意味が違います。

忍耐とは、心の平安や平和を意味するんですね。

2012年7月28日土曜日

捨:相手を許すとは:ガンジー

弱い者ほど、
相手を許す事ができない。

許すと言う事は、
強さの証だ。

マハトマ・ガンジー

2012年5月18日金曜日

心を見つめるとは

(「瞑想のすすめ」ランチュアン イントラカムヘン尼著、訳tammashart:より)

心を見つめるとは、
心の中に生じる感情を観察する事

心が何を感じているのか、
涼しいと感じたら、それは涼しいという感情が生まれたのです。
それが心の自然な状態です。

2012年4月24日火曜日

捨:執着を捨てる事が解脱

(安らぎへの道は険しくない)より
http://www.j-theravada.net/howa/howa165.html

「すぐ解脱に達しますよ」と釈尊に言われても、実際に、解脱に達する人は少ないのも事実です。

それは人々の理解能力の問題です。
生きることは苦である、という真理を認めたくはないのです。
何を言われても、生きることでいろいろ楽しみがあるのではないかと、思っている。
それで、生きることに執着するのです。

執着を捨てることが、解脱です。

「執着を捨てたくないが、ブッダの教えはありがたい。
実践したい」と言っても矛盾があります。
ブッダの説かれた「生きることは苦である」という真理を否定しているのです。
その真理を否定すると、「解脱は最高の幸福である」という真理も否定しているのです。

2012年4月8日日曜日

問題は、たった一つだけ。妄想する事

(“言葉の力”と実況中継)より

意味を理解できない呪文自体に効き目は全く無い。
それは、迷信。
言葉に力は無い。
言語は、道具。

言葉によって、一部の感情が上がってくる。
言葉に力が在るのではなくて、心のエネルギーに力がある。

人間は、言葉を道具として使っている。
人間は、言葉で感情の管理ができる。
言葉を聞くと、心の中の感情がかき混ぜられて爆発する。

生命の問題は、たった一つ
妄想する事。
それさえ無ければ、全てOK

2012年3月31日土曜日

第一回 摂津勉強会

本日から、大阪府の摂津で勉強会が始まりました。
(高槻市立総合市民交流センター 3F)

勉強会で、私が頂いた実りです。

(1)捨てる。と、手放す。
(2)この瞬間を意識する。
私は、正月のアラナの宿泊冥想会に参加で、溢れる程の実りを
頂きました。

その後、
「24時間、心と身体の観察して、心が揺れた瞬間に捨てる。
この呼吸を吐き終わるまでに死ぬかも知れない。」
(※絶えず、死を意識する事も、Appamādaです。:プッタタート比丘)
という、訓練をしており、
今、この瞬間瞬間の苦しみからの解放を実感しております。

また、美しい、楽しいと感じて、心は揺れても、
終了宣言をして、対象に執着しない訓練もしております。

「手放すとは、エネルギーを解放する。」
との話を頂き、また一つ苦の滅尽の理解が深まりました。
(捨てる。と、手放す。は同じ事と、理解しています。)

私が、心が揺れた瞬間に捨てていたのは、エネルギーである事。
また、エネルギーを手放す事をイメージする事でも
瞬間瞬間の苦の滅尽になる事を理解しました。

2012年3月2日金曜日

捨:心は一瞬で変わる

家族と財産を失った10日後の2010年の1月2日に、
長老の本「怒らないこと」に出会い、1ヶ月間、毎日、毎日、何度も何度も読み返しました。
オーディオブックも購入して、歩きながら、掃除をしながら、絶えず聞いていました。
もっと理解したくて、倍速版までも購入しました。
今までに軽く50回は聞いているでしょう。
いや、100回は聞いているかも。

この本と出会った2週間後の1月15日頃に、家族に騙された事に怨み、布団の中で悔し涙が止めども無く流れていた。



「涙は、怒りだ」と、思った瞬間に。
けろっとして、何事もなかったように、心が穏やかに成った。

2012年2月29日水曜日

仏教の精髄

プッタタート比丘(三蔵の中のダイヤモンド)より抜粋
http://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html

仏教の精髄とは何でしょうか。
それは、

サッペー タンマー ナーラン アピニヴェサーヤ
Sabbe dhammā nālaṃ abhinivesāyā
何物も、私、私のものと執着するべきではない

というブッダの言葉です。
これが三蔵の中のたった一粒のダイヤモンドです。
それが拡大されていろんな形になりました。

2012年2月27日月曜日

仏教の真髄を掘り出す道具

仏教の「信」は、手を合わせてお願いをする信仰では無く、ブッダの法を理解、納得、実践して確信する。です。

豪華絢爛に装飾された仏教の扉を開け、奥に光り輝くブッダの真髄を取り出す道具(方法)を紹介します。

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プッタタート比丘(三蔵の中のダイヤモンド)より抜粋
http://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html

タンマを信奉する時、自由であって下さい。その為に、仏教の中のダイヤモンドと、ダイヤモンドを掘り出す道具の両方を差し上げます。これから差し上げる物を、仏教の中のダイヤモンドと言います。つまり、タンマを受け入れ信奉する上での最高の自由です。

「カーラーマ経(kālāmā sutta)」には、仏教を信奉する上での自由が述べられています。
それは最高の自由であり、最高に民主的です。
内容は、カーラーマの人々が、「どう受け入れたら良いのか分から無いほど、色んな教義を教える人がいるので、どうしたら良いでしょう」と質問した事に対し、ブッダが、カーラーマ経の十項目と呼ばれている物で答えた物です

2012年2月24日金曜日

「生きとし生けるもの」の中に「私」が入ってしまった。

私の宿泊冥想会の体験談が、日本テーラワーダ仏教の月刊誌Patipada3月号に掲載されました。
2011/12/29~2012/1/3

たった6日で溢れる程の実りがありました。

アラナ精舎で12月29日~1月3日に宿泊冥想実践会が開催されました。
宿泊者は、男女各2名で愛知からの参加者もおられました。
朝は4時半に起床、5時半に読経、夜10時までは、冥想、仏教の勉強、木岡様へのパーリ語についての質疑応答と有意義な年末年始を過ごせました。

2012年2月22日水曜日

捨:生かされている。とは

(私感です。)

「生かされている」とは、
見えない何かの力に、生かされているのでは無く。
目の前の事(この状態)に最善を尽くす。と言う事です。

今、この瞬間、この与えられたこの状態、この目の前の状況に、不満、怒りを捨て、理性と慈しみで、確り最善を尽くして行動する事です。

与えられた状態、身体(不自由でも)、仕事(理不尽な処遇でも)、人間関係(いじめられても、嫌いでも)、家(荒ら屋でも)、食事(粗食でも)、勉強(苦手でも)、家庭(歪んでいても)、排便さえも、睡眠にも最善を尽くして行動す事です。

目の前の状況の、不満、怒り、悲しみ、絶望さえも捨て、心を穏やかにし、理性と慈しみを持って、与えられたこの中で最善を尽くして行動する。

「生かされている」とは、そういう事だと思います。
目の前の事、この状態に最善を尽くす。と言う事です。

2012年2月18日土曜日

プッタタート比丘との出会い。

私は、全ての飾りや鎧を取り払った、
世尊だけのお言葉で、迷い(執着)を完全に捨てたい。
との思いで、色々な仏教と関わってきました。

本日、ターン・プッタタート比丘の法話の翻訳と出会いました。
とても興味深い内容でした。

2012年2月16日木曜日

捨。冥想は、捨てる訓練

(“悟りたい”人が悟れない理由)より
http://gotami.j-theravada.net/2006/07/dhammacast-21.html

「悟りたい」は、執着。
「幸福に成りたい」も、執着。
「苦しみを無くしたい」は、無執着。

仏教は、『執着を捨てる』ことを教えます。

冥想は、捨てる訓練。
仏教の冥想法は、「捨てる訓練」なのです。

2012年2月15日水曜日

捨。智慧、禅定に執着しない。

13.もうひとつの生き方 I (1)智慧もサマディも悟りではありません
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi63.html

(1)智慧もサマディも悟りではありません

■完全な悟りはどうやって得るのか■
仏教の世界で、一番優れていたと言われるのはお釈迦さまの一番弟子であるサーリプッタ尊者です。サーリプッタ尊者ほど、仏教の話を明確に説明できる人はいなかったのです。ですので、いろいろな修行者たちが悩んだとき、問題にぶつかったとき、彼らを解決に導いてあげたのは、ほとんど、サーリプッタ尊者だったのです。

2012年2月13日月曜日

捨。完璧な道

(CD: インドゥリヤ バーワナー(六根の冥想)
ヴィパッサナー冥想の極意)より

中部経典 インドゥリヤ バーワナー スッタ (第152 感官修習経)
Majjhimanikāya 5.10 Indriya bhāvanā sutta

454
Etaṃ santaṃ etaṃ paṇītaṃ yadidaṃ — upekkhā’ti.
これが、安穏である、これが、勝れている、それは、何でしょうか?
捨-Upekkhāである。

心地良さが生まれても、捨を実践すると、安穏な気持ちになる。
それが、冥想と言う事。

捨-Upekkhāとは、
・心の波を立てないで平安に保つ。
・心を冷静な状態で保つ。

花を見たら、パッと気持ちよくなる。
が、直ぐに、これは造られた物で、あまり品のある物ではない。
一瞬で、サッと、気持ちを捨に持っていく。

興奮しないで落ち着いて平安で居るぞ。
と言うのが、修行であり、冥想であります。

2012年2月12日日曜日

捨。Upekkhā

心を育てるキーワード集 →CATU-APPAMAÑÑā-CITTA: 慈悲 (四無量心)
http://www.j-theravada.net/pali/key-catu-appamanna-citta.html

----- 以下引用

upekkhā(ウペッカー) 捨
 差別のない広々した平等な心でいる優しさ

捨 upekkhā 「平等心」です。

Upa という接頭語には、
落ち着いて、包括的に」という意味があり、
それに ikkhati
見る、観察する」が合わさった動詞
upekkhati の名詞形がupekkhā で、
落ち着いて客観的に観察すること」というような意味になります。
一方的に偏らず、偏見がない心です。

その意味を見てもわかるように、
upekkhā と智慧はかなり近いのです。
upekkhā が育つ」と「智慧が育つ」は同義語と言っていいほどです。

2012年2月10日金曜日

捨。手放す

心に生ずるものは何であれ、手放す様にして下さい。
賞賛や見返りを期待してはいけません。

もし、少しだけ手放すのなら、
貴方は、少しだけ平安を得るでしょう。

もし、多くの物を手放すのなら、
貴方は、多くの平安を得るでしょう。

もし、あらゆる物を手放すのなら、
貴方は、完全な平安と自由を知るでしょう。

その時、
この世界に於ける貴方の戦いは、終わりを告げる事になるのです。

アーチャン・チャー長老
(書籍:手放す生き方 P104)

捨。解脱

お釈迦様の教えは、すべてを捨てたところ(解脱)で修了するのです。

アーチャン・チャー長老

出村佳子さんのHPより、抜粋
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html

お釈迦様の最後の言葉

vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethā
ヴェアダンマー       サンカーラ     アッパマーデーナ    サンパーデータ
諸々の現象は作られた物、アッパマーダ(≒不放逸)に努めなさい。

諸々の現象(vayadhammā)は、 作られた物(saṅkhārā)、
アッパマーダ≒不放逸(appamādena)に、努めなさい(sampādethā)。

諸々の現象は作られた物 = 衰滅法 = 真理-衰え滅びる性質 = 諸行無常(sabbe saṅkhārā aniccā) = 仏教
アッパマーダ(≒不放逸、今の瞬間に気づいている状態(覚醒している状態)を維持する) = 仏道

この一行で、仏教と仏道を表しております。
仏教=諸行無常(vayadhammā saṅkhārā)
仏道=appamādaに努める(appamādena sampādethā)

・vayadhammā:衰滅法
 vaya :   ① 衰退、滅亡、消滅、衰滅
            ② 年代(青年、壮年、老年などの)、青春
 dhammā : ① 法、教法、教え、真理、正義、義務
           ② 法に従う、教えに従う

・saṅkhārā: ① 行為、形成力、現象

・appamādena :
   appamāda : ≒不放逸、覚醒、意識がはっきりしている
   √mad : 酔う、混乱、狂う
   pa+māda :  酔う状態、狂った状態
   a(否定の意味)+(p)+ pamāda : 覚醒とか意識がはっきりしている

・sampādethā : sampādeti : 得る、完遂する、完成させる、努める

   -----
''handa dāni, bhikkhave, āmantayāmi vo, vayadhammā saṅkhārā appamādena sampādethā''ti. Ayaṃ tathāgatassa pacchimā vācā.
大パリニッパーナ経「ブッダ最後の旅」中村元訳 P158
さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、 
「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」
と、これが修行を続けて来た者の最後の言葉であった。

2012年2月9日木曜日

捨。放っておく。悟りへのパスワード。

冥想のルールは、(1)実況中継、(2)スローモーション、(3)感覚を感じる
冥想とは、実況中継。実況中継が冥想。

足がしびれたり、カラダが痛くなったら、放っておく。
この放っておく事が、悟りへのパスワード。
傷みも無常である。事を観察出来る。

(初心者指導にて)

≪所感≫
放っておくとは、捨の実践と言う事。

主観的な思考、妄想、Papañca(捏造)を捨てて、集中して、ありのままの心と身体を観察して、真理(苦、無常、無我)を発見(智慧)する事。

観察とは、
物事の状態や、変化を、当事者では無く、第三者の立場から、客観的に、冷静に、注意深く、見て、調べる。事。

捨。仏教は、突き詰めれば「捨てる」と言う事に尽きる。

「震災と祈り」サンガジャパンVol. 6 「落ち着き」だけが「自分のもの」になる より → Amazon

≪抜粋≫
仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」
仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。

長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。
お釈迦様も「私の物で無い物は、捨てなさい」と同じ言葉をずっと説かれます。

仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです。
強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

≪以下 原文≫

■「したい」と、言う気持ちを捨てる。

アーチャン・チャーという有名なお坊さんがいます。

田舎のお坊さんで、外国語は何もわからず、しかも森の中で生活していたのですが、世界中で有名なのです。

2012年2月8日水曜日

起床時、就寝時の冥想

(書籍:自分につよくなる P177)

それから、もう一つ大切な日常的なヴィパッサナー冥想があります。

それは、
朝起きてすぐの時間と、夜寝る前の時間に、ヴィパッサナー冥想をするのです。
これは、とても効果的ですし、いろいろといいことがあります。

2012年2月7日火曜日

アースマラソン

芸人の間寛平(1949年高知県生まれ)が、挑戦した人類初のアースマラソン
2008年12月17日(59才)~2011年1月21日(61才)
ヨットとマラソンで地球を2年で一周(41,000km)する過酷なレース。

そのアースマラソンの公式ページに、応援に来た息子(慎太郎さん)と一緒に走った時の日記「親子の時間Ⅱ」が載っていたので引用致します。

2012年2月6日月曜日

捨。人の言動は、放っておく

他人は、放っておきなさい
他人の欠点を探してはいけません。  もし、彼らが間違った行いをしたとしても、その事によって、貴方自身が苦しむ必要は無いのです。  もし、貴方が彼らにどの様にするのが正しいかを指摘して、彼らが、それに従って行動しなくても、放っておく事です。

アーチャン・チャー長老
(書籍:手放す生き方 P99)

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他の人のことは放っておくのです。

自分の心を観察するだけでも十分すぎるほど大変なことです。
なぜ他人を評価するというような重荷をさらに背負うのでしょうか。

自分の呼吸や毎日の生活を冥想の場として活用する事を学ぶのです。
そうすればあなたの智慧は確実に成長します。

アーチャン・チャー長老
(書籍:手放す生き方)

2012年2月5日日曜日

冥想の心の準備

「おまえさんは、まず自分の見解を捨て、心をからっぽにせにゃならん。
そうして初めて物事を観察できるようになるわけじゃ。
わしらの修行は、利口さと愚かさの双方を超越したものじゃ。」

 (アーチャン・チャー長老 手放す生き方)

2012年2月4日土曜日

無我とは

生きる、ということは、
感覚を変化させることです。
感覚には苦も楽も不苦不楽もあるし、一つの感覚だけ続くことはあり得ない。

感覚は、因縁によって現れたり、消えたりするのです。

愚か者は、
「感覚が我であり、我が魂であり、永遠である」と誤解して執着して、輪廻転生して苦しむが、

理性のある人は、
感覚に対する執着を一切捨てて、解脱に達するのです。

これが釈尊の説かれた「無我」の話です。

(HP:魂は巨大妄想の産物である)
http://www.j-theravada.net/howa/howa163.html

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お釈迦様の教えには「無我」(実体はない)の冥想があります。
どんな人も「私」に執着していますから、この教えを聞いたほうがよいでしょう。
「私」に執着することから苦しみが生じます。
それゆえ、この「無我」ということを、よく観察すべきなのです。

悟れない

修行で、なかなか悟りに達しないという事は、無明を正当化している。

(法話:パパンチャを破る-禅の物語(無門関)にちなんで) より

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(「震災と祈り」サンガジャパンVol. 6 「落ち着き」だけが「自分のもの」になる)

≪抜粋≫
・「知りたい」「悟りたい」などと、「○○○○したい」が入ると終わり。

・やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。  「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。

・ですから、強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

冥想とは

冥想とは、観察して、智慧が現れる事。

(法話:なぜ中道・四諦・八正道だったのか?)
http://gotami.j-theravada.net/2010/02/dhammacast-95.html

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アーチャン・チャー長老
(書籍: 手放す生き方 P26)

真の八正道。 冥想実践
http://appamado-amatapadam.blogspot.com/2012/02/blog-post_823.html

貴方が冥想をする時は、
あるがままにいて下さい。
貴方が歩く時も、あるがままにいて下さい。
何にも執着せず、何にも抵抗しないで下さい。

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(初心者指導にて)

冥想のルールは、(1)実況中継、(2)スローモーション、(3)感覚を感じる

冥想とは、実況中継。実況中継が冥想。

足がしびれたり、カラダが痛くなったら、放っておく。
この放っておく事が、悟りへのパスワード。
傷みも無常である。事を観察出来る。

≪所感≫
放っておくとは、
自分の心と身体を観察する事。

観察とは、
物事の状態や、変化を、当事者では無く、第三者の立場から、客観的に、冷静に、注意深く、見て、調べる。事。

即ち、
主観的な思考や妄想をしない。と言う事。
冥想に集中する。と言う事。
それは、主観、感情、妄想、捏造をてて、心と身体をありのままに見る。と言う事。

捨の実践と言う事。

主観的な思考、妄想、Papañca(捏造)をてて、集中して、ありのままの心と身体を観察して、真理(苦、無常、無我)を発見(智慧)する事。

2012年2月3日金曜日

四聖諦-(01)

アーチャン・チャー長老 (法話:4つの聖なる真理)
出村佳子さんのHPより抜粋。
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html

この法話は1977年にイギリスのカンブリア、マンジュシュリー協会でおこなった法話です。

真理とは

· 真理とは、四聖諦(苦集滅道)
苦諦:生きる事は苦という真理
集諦:苦の原因という真理
滅諦:苦の滅という真理
道諦:苦の滅を実現する道という真理(八正道) 

· 真理とは、苦、無常、無我

(書籍;調査中)

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(書籍:サンガジャパンVol. 6「震災と祈り」
「落ち着き」だけが「自分のもの」になる P170-176)

・仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」

・仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
・仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。

・長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。
・お釈迦様も「私の物で無い物は、捨てなさい」と同じ言葉をずっと説かれます。

・仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです。
・強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

2012年2月2日木曜日

真の八正道。 冥想実践


アーチャン・チャー長老
(書籍: 手放す生き方 P26)


仏教の伝統的な教えでは、八正道は、
正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八種から成ります。

しかし、真の八正道は
二つの目、二つの耳、二つの鼻孔、一つの舌、一つの身体という、私達自信の中にある物です。

これらの八つの門は、
私達の実践の全てであり、実践の道を歩む際の精神を表す物です。

これらの八つの門を
良く観察し、検討してみて下さい。

そうすれば、全てのダルマがそこに顕現する事でしょう。

お釈迦様は、人から何も見返りを期待していません

お釈迦様は、人から何も見返りを期待していません。

一人一人が幸福になる道を真剣に実践する事こそが、
師匠であるお釈迦様に対する本物の礼だ。とも説かれています。
(書籍:これでもう苦しまない。 P36)

2012年2月1日水曜日

パパンチャ(Papañca)とは

・パパンチャ(Papañca)とは、六処(眼耳鼻舌身)から入ってきたデータを感情で捏造して、自分だけに限った世界を作るという事。
・私達は瞬時にデータをねつ造する。
(施本:偉大なる人の思考-P110)

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・無明とはPapañcaの事。
(法話:パパンチャを破る-禅の物語(無門関)にちなんで)

2012年1月31日火曜日

仏教とは

仏教とは、苦を乗り越える事である。
(書籍:これでもう苦しまない より) 

仏道とは

・仏道とは、八正道の事です。

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・Appamādaは、三蔵経を包み込む程大きく、仏道そのものです。
(ダンマパダ21偈)

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・Papañca(ねつ造)とNipapañca(幻覚を破る)の一対で仏道の全てを語っている。
(施本:偉大なる人の思考-P112)

2012年1月30日月曜日

無明とは。

(長老の語録より、文献名調査中)

四聖諦についての無智が無明
無明とは、
・苦についての無智
・苦の生起についての無智
・苦の滅尽についての無智
・苦の滅尽に至る道の無智
これを称して無明と言う。
即ち四聖諦についての無智が無明。

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(法話:パパンチャを破る-禅の物語(無門関)にちなんで) より

無明とは簡単に説明すると、
四聖諦を知らない。
因果法則を知らない。
事であるが、

難しく言うと、無明とは、
パパンチャ(Papañca:データのねつ造)の事です。

捨。中道とは、揺らがない心。「捨」

(根本仏教講義→8.苦集滅道 (2)仏陀の苦行から悟りまで)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi39.html

中道の出発点は、何物にも囚われない心です。

2012年1月29日日曜日

仏教の最大の祝福とは、戒めです

仏教の最大の祝福は、戒めです。
(2012.1.8 新年祝福法要inマーヤーデーヴィー)

2012年1月28日土曜日

悟り と 解脱 の違い

・解脱 vimutti(ヴィムッティ)…脱する
・悟り bodhi(ボーディ)…目覚める

2012年1月27日金曜日

Appamādo amatapadaṃ

旧ブログのタイトルの意味は、「不放逸は不死の道なり」で、パーリ経典 ダンマパダ 21偈からもらいました。
Appamādo  Appamāda は、仏教徒にとっては大変重要な言葉で、不放逸という意味も含まれ、三蔵経がすっぽり入ってしまい仏道そのものです。

2012年1月26日木曜日

究極の真理

解脱さえも無常である。 と言う事が、究極の真理。

2012年1月25日水曜日

仏教の最後の目的

(長老の語録より、文献名調査中)

仏教の最後の目的は「悟り」の「智慧」を得る事にあります。

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(長老の語録より、文献名調査中)

無常の智慧を発見したら悟る。

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(四無量心の世界より)

冥想して、禅定して、「禅定さえも無常である」、と発見(智慧)したら悟る。

2012年1月24日火曜日

慈悲は仏教の土台

・慈悲は、仏教の土台です。
・慈悲で「心」を育てなければ、幾ら「真理」を理解しても、「智慧」を発見できず、「仏教」を理解できない。
慈悲の心は、道徳であり、即ち五戒が完成する。五戒とは戒律の事。

戒律は仏教の土台であり、その上に禅定(集中力)が生まれ、智慧を発見する。
戒律を守らないと、正しい禅定が生まれず、真理を理解しても、悟りの智慧は発見出来ない。

2012年1月23日月曜日

仏教の2大要素は、慈悲と真理

慈悲、智慧の説明としては、全く足りません、今後、更新していきます。

■仏教の2大要素
1.慈悲の心を育てる。
2.真理の発見。

■慈悲とは
慈悲喜捨(四無量心)の事
1) 慈:Mettā(メッター) 友情のような優しさ 
2) 悲:Karunā(カルナー) 他者の苦しみをなくしてあげたいという優しさ 
3) 喜:Muditā(ムディター) 他者の幸福を共に喜ぶ優しさ 
4) 捨:Upekkhā(ウペッカー) 差別のない広々した平等な心でいる優しさ 

≪生き方≫
慈悲とは、人がどの様に生きれば良いか?
という質問に対する お釈迦様 の答えです。

≪エゴを消す≫
慈悲の冥想をする度にエゴが消えていく。

≪仏教の土台≫
慈悲は、仏教の土台であり、
慈悲が育っていないと、言葉で真理を理解しても、
正しい禅定が作れず、悟りの智慧が生まれません。

≪心と身体を清める唯一の方法≫
「この体で犯した罪は、この世で償って、あの世には
持って行きません」と、思うならば、
(mettā cetovimutti)「慈悲心解脱」を実践するのです。
※心解脱(慈悲)、慧解脱(ヴィパッサナー)

≪罪からの解放≫
罪を悔い改め、心清らかにしたければ慈悲の瞑想しかない。
慈悲の瞑想をすれば恩赦になる。【異熟】

≪悟る≫
慈悲でエゴが消えたら不還果の「悟り」です。
この世で、完全に解脱に達することができなかった場合でも、
二度と、この世に戻れない境地である、不還果に生まれるのです。 

■真理とは
・真理とは、四聖諦
・真理とは、苦、無常、無我
・心と身体に真理がある。

2012年1月22日日曜日

捨:仏教は、信仰を捨て、法を理解して実践して確信する。

仏陀は、只、言われたことを無条件に信じると言う「信仰」を否定しております。
仏陀は、私に手を合わせて拝むな。自ら法を実践しなさい。と言われています。
仏陀は、信仰を捨て、理性でもって、確り、自分で確かめて、確信しなさい。と言われています。
それが、仏教の「信」です。 仏陀は、「信仰」を捨てなさい。と説いています。

2012年1月21日土曜日

仏教を学ぶ上で注意する事

・理性で、説法の内容を分析する事。
(明晰に理解していないのに、他人の話を、すぐに信じてしまうことは愚かである)
・自分が実践していない事を、他人に説いてはいけない。
・物知り屋だと他人に褒めて貰いたくて学んではいけない。
・只の知識欲に刺激を与える為に学んではいけない。

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プッタタート比丘(三蔵の中のダイヤモンド)より抜粋
http://space.geocities.jp/tammashart/book-sanzou.html

「カーラーマ経」には、仏教を信奉する上での自由が述べられています。
(1)長く言い伝えて来たからといって信じてはいけ無い。
(2)長く伝承されてきたからといって信じてはいけ無い。
(3)評判になっているからといって信じてはいけ無い。
(4)教本の中にあるからといって信じてはいけ無い。
(5)誰かの教えが論理的に正しくても、その理論自体が誤りであったり、理論の用い方が誤っている事もあるので、直ぐには信じてはいけ無い。
(6)意味的に理論に合っているからといって信じてはいけ無い。
(7)常識と呼ばれる気軽に考える習慣に従って信じてはいけ無い。
(8)自分の見解に耐えられるからといって信じてはいけ無い。
(9)話す人の言葉や態度が信頼できそうだからといって信じてはいけ無い。
(10)話しているサマナ(出家)が自分の先生でも信じてはいけ無い。

これを良く理解して、いま挙げた十の理由で、簡単に信じてしまわ無い様にして下さい。
しかし、ここで申し上げたいのは、ブッダは、先に挙げた十種類の物に関わるなと禁じてはいません。
十分熟慮する資料として、話を聞いてもいいし、噂を聞いてもいいのです。
しかし直ぐには信じ無いで、それで
苦を無くす事が出来るかどうか熟慮して、
もし苦しみが無くなりそうなら、取りあえず実践してみて、
真実である事が証明されてから、
それから信じなさいと教えています。

2012年1月20日金曜日

スマナサーラ長老との出会い。

今まで苦労して積み重ねて来た人生を、身内に根底からひっくり返され、家族と財産を含めて全てを失った10日後の2010年1月2日に梅田の紀伊国屋書店で「怒らないこと」に出会い、人生で培った私の常識、思考が根底から間違っていた事を叩きつけられました。

私に欠落していた物は、慈しみと理性です。

お釈迦様に、生命としての道を照らして頂きました。
無明を引きずりながら前に進んで、生命として精進して参ります。

この本に出会っていなければ、今ここに、私は居ません。

- 生きとし生けるものに悟りの光が現れます様に。 -

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2011年12月11日
マーヤーデービー精舎から新大阪駅まで、長老の車に同席させて頂き、大変貴重な時間を頂きました。