2012年2月9日木曜日

捨。仏教は、突き詰めれば「捨てる」と言う事に尽きる。

「震災と祈り」サンガジャパンVol. 6 「落ち着き」だけが「自分のもの」になる より → Amazon

≪抜粋≫
仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」
仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。

長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。
お釈迦様も「私の物で無い物は、捨てなさい」と同じ言葉をずっと説かれます。

仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです。
強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

≪以下 原文≫

■「したい」と、言う気持ちを捨てる。

アーチャン・チャーという有名なお坊さんがいます。

田舎のお坊さんで、外国語は何もわからず、しかも森の中で生活していたのですが、世界中で有名なのです。
高名な弟子たちもたくさんいます。  立派なお坊さんですが、説法するときはあまり難しい仏教用語などは何も言わず、そこらへんにいる犬猫の話やら、牛の話やらばかりします。
しかし、すごいパワーがあります。

そのお坊さんが、ずっと言っている一つの言葉があるのです。
私は英語でしか読んでいませんが、「let go(手放す)」、いわゆる「放っておけ」という言葉です。
その言葉を中心に据えて、ずっと教えていました。  その教えの結果として、かなりの人々が仏教を経験していきました。

お釈迦様も同じ言葉をずっとおっしゃっています。
「私のものでないものは捨てなさいよ」と説かれます。

「これが私ですか」「これが私ですか」と、問いかけるやり方で修行する方法もあります。
感覚、身体、気持ち、あるいは大事なものなどを、「私だろうか」と。
そして「私でないのだから捨てます」と放っておけるようにするのです。

「捨てる」「放っておく」「気にしないことにする」
という能力が身につくと、かなり速いスピードで成長して、悟りに達します。

対して、「知りたい」「悟りたい」などと、「○○○○したい」が入ると終わり。  そこは一般人が引っ掛かってしまうところです。  「そんなこと言っても、『やりたい、したい』という気持ちがなければできないでしょう。」と考えてしまうのです。

そこは、一人一人がなんとか解決しなくてはいけないポイントなのです。

■自分とは何かを調べ、捨てていく
目標をつくって頑張るのは、世の中で一般的なやり方です。  「これができるようになるまで頑張るぞ!」などとよく言いますね。

仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです

やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。  「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。

ですから、
強力な意欲が必要です。  「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。

しかし、「やりたい、やりたい」というのはダメです。  「やりたい、やりたい」というのは、自我が絡んでいます。
自分という錯覚があって、やりたくなります。  それでは、いくら冥想をしても、何年やっても悟りには達しません。

冥想にはほかならず結果がありますから
冥想を続けたければ、落ち着いてはいきます。  長いあいだ、清らかな心ではいられます。

しかし、「自分」という気持ちが入っている限りは、悟りという結果にはならないのです。

「自分」という気持ちを、はじめから捨てることができない人々は、「自分」とは何かと調べてみるのです。
「これが『自分』ですか」「これが『自分』ですか」と。  そして、そうでないものは、引っ掛からないで捨てることにするのです。

たとえば、冥想をすると、最初は痛みが出ます。
次に「自分」が現れてくるのです。  「この痛みだけ、なんとかならないか」などと思います。  それは、痛みに引っ掛かって執着しているのです。

このとき、「痛みとは『私』でしょうか」と調べてみるのです。
そして、「『自分』ではないでしょう。では放っておきましょう」というふうになれれば、冥想は成功します。
あるいは、このとき逆に、「なるほど『私』『私』とは、痛みがあるから生まれたものだ。ああ、『私』というものは
あるわけがないのだ」とわかると、そこで悟りの段階をひとつ進むことができます。

冥想が成功しない人々は、
だいたい、私のこの話を聞いて、「私とはこういうものだ」ですとか、私が言ったことをただ繰り返して言うのです。
人の言ったことをそのまま持ってくるようなインチキやごまかしをするわけですから、「あ、この人は悟らないだろう」と思います。

受け売りではなくて、もし自分でわかったら、これはすごい力です。
わざわざ私に報告しなくても、わかります。

■比較して言う「無常」は、真の無常では無い。
無常を知っている事で悟りに達する、と言うのは当たり前です。
ここで言う無常とは、
究極的な無常です。
一般に言われる無常は、何か無常で無い物に比較して感じる無常であって、それは究極的な無常ではありません。

中略

春に咲く桜にも、「ああ、花は散って無常だなあ」と言ったりするとでしょう。
その場合は、
桜の花が無常で、桜の木は無常でない訳です。
一年の内に精々一週間位しか花盛りが無い「花」の方を無常だと言うのです。
どうしても何か、無常で無い物に比較しています。
しかし、
究極的には、無常でない物は、存在するもしないのです。

中略

■修行は、「私」が無い世界
悟りが早いか遅いかは、その人の固定概念がどんな程度かというところで差がでます。
固定概念があると成り立たないのです。

その固定概念の中でも大きなものが、「私」です。

修行は、最初から「私」がない世界です。
語るのは、修行者が、「今のこのような現象をこのように見ているのだ」と、現状を説明するだけの世界です。

中略

冥想では、指導者はやり方を教えるだけで、余り助けてあげるところはありません。
そして、やってみれば、悟りに達します。
そんなにややこしい事でも、依存する世界でも無いのです。

中略

指導者が悟らせるなどと言う事はあり得ないのです。
ですから、タイのアーチャン・チャー長老も「let go、let go、let go、let go」と言うだけで、解った人がブッダの教えを経験する。と言う事なのです。

■仏教の真理は、ひと言で言えば「捨てる」

私が覚えているアーチャン・チャー長老のエピソードをひとつだけご紹介します。
長老のお寺は、森のお寺でした。  あるとき、ひどい風雨で木なども倒れて無茶苦茶になって、それをみんなで掃除していたときのことです。  修行に来ている人々みんなで、木を切ったり捨てたり、いろいろ考えたりして、お寺をきれいにしていました。
あるところに木が一本倒れていて、長老が若い人と一緒にどけようとして、二人で木を抱えました。
重いので、持っていて、ちょっと歩いて、「この辺りで捨てましょう」と、ドカンとそれを捨てたのです。

そのとき長老が、「捨てたら楽ですね」とひと言、言うのです。
重くて、持っているのがキツい木を、捨てたらラクになった、
レッゴー(Let go)ということなのですね。
「捨てたら楽ですね」という長老のひと言に、私はびっくりするのです。  弟子がどんな感じになったかわかりませんが、私にとっては、とんでもないびっくりです。

「捨てたら楽ですね」
というのは、とてもシンプルな言葉でしょう。
重い木をお運んで、ドーンと捨てた。
「あっ、楽」、ただそれだけ。

仏教の、悟りのポイントは、ただそれだけなのです。
長老方、指導者たちは、いつでも「捨てたら楽」だということを言っているのです。

アーチャン・チャー長老は、チャンスがあったら、いつでも真理を教えるのです。  そのための「捨てたら楽ですね」という言葉なのです。  いっさいを捨てるのです。
それだけ。
持ち運ぶとかなり苦しいのです。
それは真理です。

私がびっくりしたのは、何のことなく現実的に、目の前にあることで、お釈迦様がおっしゃっていたような譬えで長老が言うからです。  やっぱりすごい人だなあと思います。  誰にでも言える言葉ですが、精神的に優れた人の言葉は力の強さが違います。

私達も重い荷物を運んだりするでしょう。
きつくて、きつくて、きつくて、痛くて、それでも運ぶ。
何故かと言うと、その荷物に対して結構執着があるのです。
余りにも重くて、一寸置いておきます。

その瞬間で、楽に成りますが、また持ちますからね。
手に取る、そこで苦しみが出てきます。

ですから、
仏教は突き詰めれば「捨てる」ということに尽きるのです。

東日本大震災で被災された方々は、大変な苦難に遭っていらっしゃると思います。  そして、精神的に落ち着いていられる能力を確かめ、養うときでもあります。

「捨てる」「執着しないで楽になる」「放っておく」
という真理への理解を深め、冥想修行を通じて心の平安、本当の幸せを獲得できますよう、願っています。

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所感
捨てるとはどういう事か?
それは、心の揺れを捨てる。事。 即ち、捨-Upekkhāの事。
・捨-Upekkhā 5つの質問 →
・捨:所感-仏教は、心の揺れを捨てる事から始まる。 →

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