(法話:なぜ中道・四諦・八正道だったのか?)
http://gotami.j-theravada.net/2010/02/dhammacast-95.html
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アーチャン・チャー長老
(書籍: 手放す生き方 P26)
真の八正道。 冥想実践
http://appamado-amatapadam.blogspot.com/2012/02/blog-post_823.html
貴方が冥想をする時は、
あるがままにいて下さい。
貴方が歩く時も、あるがままにいて下さい。
何にも執着せず、何にも抵抗しないで下さい。
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(初心者指導にて)
冥想のルールは、(1)実況中継、(2)スローモーション、(3)感覚を感じる
冥想とは、実況中継。実況中継が冥想。
足がしびれたり、カラダが痛くなったら、放っておく。
この放っておく事が、悟りへのパスワード。
傷みも無常である。事を観察出来る。
≪所感≫
放っておくとは、
自分の心と身体を観察する事。
観察とは、
物事の状態や、変化を、当事者では無く、第三者の立場から、客観的に、冷静に、注意深く、見て、調べる。事。
即ち、
主観的な思考や妄想をしない。と言う事。
冥想に集中する。と言う事。
それは、主観、感情、妄想、捏造を捨てて、心と身体をありのままに見る。と言う事。
捨の実践と言う事。
主観的な思考、妄想、Papañca(捏造)を捨てて、集中して、ありのままの心と身体を観察して、真理(苦、無常、無我)を発見(智慧)する事。
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(書籍:サンガジャパンVol. 6「震災と祈り」
「落ち着き」だけが「自分のもの」になる P170-176)
≪抜粋≫
・「知りたい」「悟りたい」などと、「○○○○したい」が入ると終わり。
・やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。 「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。
・ですから、強力な意欲が必要です。 「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。
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(CD: インドゥリヤ バーワナー(六根の冥想)
ヴィパッサナー冥想の極意)より
心地良さが生まれても、捨を実践すると、安穏な気持ちになる。
それが、冥想と言う事。
興奮しないで落ち着いて平安で居るぞ。
と言うのが、修行であり、冥想であります。
アーチャン・チャー長老 法話:四つの聖なる真理
出村佳子さんのHPより
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html
お釈迦様の教えには「無我」(実体はない)の冥想があります。
どんな人も「私」に執着していますから、この教えを聞いたほうがよいでしょう。
「私」に執着することから苦しみが生じます。
それゆえ、この「無我」ということを、よく観察すべきなのです。
中略
「これは私ではない」 「私のものではない」 と観察することほど、苦しみを乗り越えるのに良い手段はありません、とお釈迦様は教えられました。
無我の観察が、苦しみを乗り越える最高の手段なのです。
しかし、私たちはたいてい「無我」ということに注意を払っていません。
苦しみが生じたとき、そこから何も学ばずに、ただ嘆いているだけです。
なぜ、そうなのでしょうか?
私たちはこのことを深く観察し、一切知者であるお釈迦様にたいする敬意を育てるべきでしょう。
中略
真理はどこにあるのでしょうか?
真理は、私たちの身体と心にあります。
身体と心を観察することが、冥想の本質なのです。
身体と心を観察するとき、智慧が現われるでしょう。
智慧があれば、何を見ても真理が見えます。
常に無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta) が見えるのです。
Anicca は無常ということです。
Dukkha は苦のことで、ものごとは無常であるのに、その無常なるものに執着すると、苦が生じます。
なぜならものごとはanatta ――「私」のものではありませんし、「私」ではないからです。
しかし、私たちはこの無常・苦・無我を見ていませんし、いつでも「私」とか「私のもの」と見ているのです。
中略
そういう訳で、お釈迦様は「これは私ではない。
私のものではない、と観察することほどレベルの高い実践はない」と、おっしゃったのです。
あるのはただ一時的に現れている現象のみです。
もしこのすべてを明晰に理解するなら、心は穏やかになるでしょう。
今の瞬間に「無常」ということと、「ものごとは私ではない、私のものではない」ということに気づくなら、私や私のものと思っているものがなくなっても、落ち着いていられるでしょう。
なぜなら、もともとそれらは私のものではありませんし、誰のものでもないからです。
単なる地水火風の要素にすぎないのです。
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(法話:パパンチャを破る-禅の物語(無門関)にちなんで) より
修行で、なかなか悟りに達しないという事は、無明を正当化している。
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