「おまえさんは、まず自分の見解を捨て、心をからっぽにせにゃならん。
そうして初めて物事を観察できるようになるわけじゃ。
わしらの修行は、利口さと愚かさの双方を超越したものじゃ。」
(アーチャン・チャー長老 手放す生き方)
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(書籍:サンガジャパンVol. 6「震災と祈り」:「落ち着き」だけが「自分のもの」になる)
お釈迦様も同じ言葉をずっとおっしゃっています。
「私のものでないものは捨てなさいよ」と説かれます。
「これが私ですか」「これが私ですか」と、問いかけるやり方で修行する方法もあります。
感覚、身体、気持ち、あるいは大事なものなどを、「私だろうか」と。
そして「私でないのだから捨てます」と放っておけるようにするのです。
「捨てる」「放っておく」「気にしないことにする」
という能力が身につくと、かなり速いスピードで成長して、悟りに達します。
対して、「知りたい」「悟りたい」などと、「○○したい」が入ると終わり。
そこは一般人が引っ掛かってしまうところです。
「そんなこと言っても、『やりたい、したい』という気持ちがなければできないでしょう。」と考えてしまうのです。
そこは、
一人一人がなんとか解決しなくてはいけないポイントなのです。
目標をつくって頑張るのは、世の中で一般的なやり方です。
「これができるようになるまで頑張るぞ!」などとよく言いますね。
仏教がポイントとする姿勢というのは、捨てて意欲だけ持つ、ということです。
やることはやるのですが、「やりたい、やりたい」ではないのです。 「何のため」とか、「このほうがこんなにいいことがあるから」という目的や理由はなく、「やる」という意欲だけ必要だということです。
ですから、
強力な意欲が必要です。 「やり抜く」という負けず嫌いが必要です。
しかし、
「やりたい、やりたい」というのはダメです。
「やりたい、やりたい」というのは、自我が絡んでいます。
自分という錯覚があって、やりたくなります。
それでは、いくら冥想をしても、何年やっても悟りには達しません。
冥想にはほかならず結果があります。
冥想を続けたければ、落ち着いてはいきます。
長いあいだ、清らかな心ではいられます。
しかし、
「自分」という気持ちが入っている限りは、悟りという結果にはならないのです。
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