心を育てるキーワード集 →CATU-APPAMAÑÑā-CITTA: 慈悲 (四無量心)
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----- 以下引用
upekkhā(ウペッカー) 捨
差別のない広々した平等な心でいる優しさ
捨 upekkhā 「平等心」です。
Upa という接頭語には、
「落ち着いて、包括的に」という意味があり、
それに ikkhati
「見る、観察する」が合わさった動詞
upekkhati の名詞形がupekkhā で、
「落ち着いて客観的に観察すること」というような意味になります。
一方的に偏らず、偏見がない心です。
その意味を見てもわかるように、
upekkhā と智慧はかなり近いのです。
「upekkhā が育つ」と「智慧が育つ」は同義語と言っていいほどです。
智慧を育てるためには、
見たもの、聞いたものにとらわれず、固定概念を捨てることが必要です。
upekkhā の「捨」という訳を見ると、一見「?」と思うのですが、「取らない、執着しない」というところからきていると思えば理解できます。
世間で「人間は平等だ」と言う時は、「他の生命は平等ではない」という気持ちがあります。
「平等を壊す人間」を攻撃するのが「平和運動」なのです。
そういう「平等」はただのインチキです。
仏教の「平等」は、広大な概念です。
sattā (生命)とは、
宇宙全体の生命、多次元生命(神々・霊・餓鬼・鬼など)を含むのです。
upekkhā の人は、
主観的な自分主義が、消えた広い心で
「生命は、色んな形を取ってそれぞれ生きている。
でも皆、同じ生命だ。
私も、ただその一員にすぎない」
と、見るのです。
仏教には、
輪廻という概念があります。
我々は、無始なる過去から、死んでは生まれ、死んでは生まれ、無限とも言える時間を生きているのです。
その時間は、
何千億年、何兆年などという小さなものでは、ありません。
一つの宇宙が消滅する時間単位でさえ、あっという間なのです。
それほどの長い輪廻の中で、我々は皆、動物や虫や魚にも、天界や地獄にも、輪廻を繰り返してきました。
だから、
誰が偉くて、誰が偉くない、など、どうやって言えるのでしょうか。
たまたま
地位が高いなど、どうということはありません。
来世では、虫かもしれないのです。
そこを、理解すると、
平等ということは、当然のことになり、具体的に、厳密に、生命は平等だと見ることができるのです。
upekkhāを育てる慈悲の冥想の言葉は「悟りの光が現れますように」です。
この言葉を、自分、親しい人々、生きとし生けるもの、私が嫌いな人々、私を嫌っている人々に、次々と念じます。
これは、心の汚れを消し去り、心の小さいレベルを破って無量の大きさの広々した心の状態をつくる修行です。
それを理解して、リラックスしながらも真剣に念じてみてください。
upekkhā (平等心)と mettā (友情)はちょっと似ています。
しかし、
平等心は、友情よりも、すごく広いのです。
例えば、
ある乱暴者が騒いでいるとします。
Mettā の慈しみがあると、
「うるさいなあ」と気楽に言えます。
乱暴者も優しい友人の言葉には怒りません。
upekkhā の人は、
静かに、「皆それぞれ自分の生き方をしているのだから、まあいいじゃないか」という感じで、なんということもなく落ち着いています。
これは
無関心とは全く逆です。
無関心は無知で、落ち着きは智慧です。落ち着きはものごとを理解することによって生まれます。
誰に対しても
静かに落ち着いている人がいたならば、周りの人々もとても気持ちがいいのです。
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