生きる、ということは、
感覚を変化させることです。
感覚には苦も楽も不苦不楽もあるし、一つの感覚だけ続くことはあり得ない。
感覚は、因縁によって現れたり、消えたりするのです。
愚か者は、
「感覚が我であり、我が魂であり、永遠である」と誤解して執着して、輪廻転生して苦しむが、
理性のある人は、
感覚に対する執着を一切捨てて、解脱に達するのです。
これが釈尊の説かれた「無我」の話です。
(HP:魂は巨大妄想の産物である)
http://www.j-theravada.net/howa/howa163.html
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お釈迦様の教えには「無我」(実体はない)の冥想があります。
どんな人も「私」に執着していますから、この教えを聞いたほうがよいでしょう。
「私」に執着することから苦しみが生じます。
それゆえ、この「無我」ということを、よく観察すべきなのです。
中略
「これは私ではない」 「私のものではない」 と観察することほど、苦しみを乗り越えるのに良い手段はありません、とお釈迦様は教えられました。
無我の観察が、苦しみを乗り越える最高の手段なのです。
しかし、私たちはたいてい「無我」ということに注意を払っていません。
苦しみが生じたとき、そこから何も学ばずに、ただ嘆いているだけです。
なぜ、そうなのでしょうか?
私たちはこのことを深く観察し、一切知者であるお釈迦様にたいする敬意を育てるべきでしょう。
中略
真理はどこにあるのでしょうか?
真理は、私たちの身体と心にあります。
身体と心を観察することが、冥想の本質なのです。
身体と心を観察するとき、智慧が現われるでしょう。
智慧があれば、何を見ても真理が見えます。
常に無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta) が見えるのです。
Anicca は無常ということです。
Dukkha は苦のことで、ものごとは無常であるのに、その無常なるものに執着すると、苦が生じます。
なぜならものごとはanatta ――「私」のものではありませんし、「私」ではないからです。
しかし、私たちはこの無常・苦・無我を見ていませんし、いつでも「私」とか「私のもの」と見ているのです。
中略
そういう訳で、お釈迦様は「これは私ではない。
私のものではない、と観察することほどレベルの高い実践はない」と、おっしゃったのです。
あるのはただ一時的に現れている現象のみです。
もしこのすべてを明晰に理解するなら、心は穏やかになるでしょう。
今の瞬間に「無常」ということと、「ものごとは私ではない、私のものではない」ということに気づくなら、私や私のものと思っているものがなくなっても、落ち着いていられるでしょう。
なぜなら、もともとそれらは私のものではありませんし、誰のものでもないからです。
単なる地水火風の要素にすぎないのです。
(アーチャン・チャー長老:法話:四つの聖なる真理
出村佳子さんのHPより、一部抜粋)
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html
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