アーチャン・チャー長老 (法話:4つの聖なる真理)
出村佳子さんのHPより抜粋。
http://homepage3.nifty.com/sukha/Ajhancha_4nobletruth_.html
この法話は1977年にイギリスのカンブリア、マンジュシュリー協会でおこなった法話です。
中略
さて、私は長年、お釈迦様の教えを説いてきましたが、私も私なりにいろいろ苦労してきました。現在、私のお寺パーポン寺(Wat Nong Ba Pong)の別院が四十ほどありますが、冥想を学びに来る人たちのなかには教えるのがむずかしい人たちがいます。知識があっても実践しない人もいれば、知識もなければ真理を見出そうとしない人もいます。そういう人たちにたいして私はどうすればよいのかわかりません。どうして人の心はこうなのでしょうか? 無智でいることは決してよいことではありませんし、無智はよくないと話しても、彼らはいっこうに耳を傾けません。これ以上、私に何ができるでしょうか。
人は冥想実践に関して「疑い」でいっぱいですし、いつも疑いを持っています。みんな涅槃(nibbāna)に達したがっているようですが、涅槃への道を自分で歩きたがらないのです。これではどうにもなりません。私が冥想してくださいと言うと、いやがってやらないか、いやがらなければ冥想中 すっかり居眠りしています。多くの人が、私が教えないことをやりたがるのです。ご住職様にお会いしたとき「こちらの修行者はどうですか?」とお聞きしたところ、ご住職様は「同じです」と答えました。これは、指導者であることの痛みでしょう。
今日は、「今の瞬間に問題を解決する方法」ということについてお話いたしましょう。
皆さんのなかには、「やるべき仕事がたくさんありすぎてお釈迦様の教えを実践する暇がない。どうすればいいのでしょうか」と質問する方が結構います。
私はこう答えます。「あなたは仕事をしているとき呼吸をしないんですか?」と。彼らは「もちろんしています」と言います。私は「でも、そんなに忙しいなら呼吸をする暇なんかないでしょう」と言うと、彼らは黙ってしまいます。仕事をしていても、ただ「気づき」(sati)さえあれば、お釈迦様の教えを十分に実践する時間があるのです。
冥想実践とは、呼吸のようなものです。
だれでも仕事をしているあいだ呼吸をしていますし、寝ているあいだも呼吸をしています。座っているときも呼吸をしています。では、なぜ呼吸をする時間があるのでしょうか?
それは、私たちが呼吸が大事なものであることを理解しているからです。だから、いつも呼吸をする時間を見つけることができるのです。
同様に、冥想実践が大事なものであることを理解するなら、実践する時間を見出すことができるでしょう。
皆さんは苦しみを味わったことがあるでしょうか?
楽を味わったことがあるでしょうか?
まさにここが真理であり、皆さんが観察しなければならないところです。
楽を感じているのは誰でしょうか?
楽を感じているのは、心です。
苦しみを感じているのは誰でしょうか?
苦しみを感じているのは、心です。
そしてこの苦や楽の現象は、生まれたところで消えるのです。
苦や楽……これが私たちの問題なのです。
そこで、「苦」と「苦の原因」と「苦の消滅」と「苦をなくす道」を理解するなら、私たちは問題を解決できるでしょう。
苦には二種類あります。
「普通の苦」と「特殊な苦」です。
普通の苦とは、ものごとの固有の性質である苦のことで、立っていることは苦であるとか、座っていることは苦であるとか、横になっていることは苦であるなどの苦のことです。条件づけられて成り立っているすべての現象に本来そなわっている苦のことです。お釈迦様にもこの苦がありました。また、楽や痛みもありました。しかし、お釈迦様はそうしたものは自然の現象であることを悟っていました。お釈迦様は苦や楽の本質を理解し、痛みや楽などの自然な感覚、いわゆる普通の苦を乗り越える方法を理解されていました。この自然の苦を理解していたので、苦に打ち負かされることはなかったのです。
重要なのは、二つ目の苦です。
この苦は「特殊な苦」で、「普通の苦」以外の苦のことです。
病気になったとき、私たちは医者に注射してもらうことがあるでしょう。注射針が皮膚に刺さったとき、いくらか痛みを感じます。これはごく自然なことです。そして注射針を抜いたとき、その痛みは消えるでしょう。これは「普通の苦」のたぐいで、別に問題はありませんし、だれでもそのように感じるものです。
他方「特殊な苦」は、ものごとにたいする執着(Upādāna)から生まれる苦です。
これは毒の入った注射器で注射をするようなもので、もはや普通の自然な痛みではなく、死ぬほどの痛みです。この苦は貪欲から生まれる苦と似ています。
邪見(間違った見方)、いわゆる条件づけられて成り立っているあらゆる現象の本質は無常である、ということを知らないことは、もう一つの苦です。あらゆる現象は、輪廻(samsāra)の領域にあります。(輪廻とは、無明の世界のことです)。何かにたいして「それが変わってほしくない」と考えるなら、苦しむでしょう。「身体は私だ」とか「身体は私のものだ」と考えるなら、身体が病気になったり老いたりしたとき、恐くなるでしょう。
呼吸を見てください。
息が入ると出なければなりません。出たら入らなければなりません。これが呼吸の本質であり、出たり入ったり変化することよって、私たちは生きているのです。ものごとはそのように変化して機能しています。しかし、私たちはそれに気づいていません。
たとえば、何かを失くしたとしましょう。それにたいして「あれは私のものだ」ときつく考えているなら、悩みが生じるでしょう。「失くしたものは現象であり、自然の法則に基づいているものだ」と見なければ、苦しみが生じるのです。
息を吸ったり吐いたりしなければ、生きることはできません。どんな現象も、本質的に変化しています。この変化すること、いわゆる無常(aniccam)ということが真理なのです。私たちは無常の中で生きています。ものごとの本質をありのままに理解したとき、苦を乗り越えることができるでしょう。
ものごとの本質(真理)を観察するということは、ものごとのあり方にたいする理解力を育てるということであり、ものごとのあり方を理解すれば、苦しみは生じないのです。もし間違って理解するなら、世の中に抗うことになりますし、法や真理にも抗うことになるでしょう。
たとえば、病気になって入院しなければならなくなったとき、ほとんどの人は「治りたい、死にたくない」と考えるでしょう。これは間違った考え方で、苦しみをもたらします。
そうではなく、こう考えるべきです。
「治るときは治るし、死ぬときは死ぬ」と。これが正しい考え方です。なぜなら、人は状況を完全にコントロールすることができないのだから。このように正しく考えるなら、治るか死ぬかに関係なく、間違った道には行きませんし、悩むこともないでしょう。「なんとしてでも治りたい」とか「絶対死にたくない」と考えるのは、ものごとを理解していないということなのです。
「病気が治るなら、それはそれでいい。治らないなら、それはそれでいい」と考えるようにしてください。そうすれば、間違った道には行かないでしょうし、恐れたり泣いたりすることもないでしょう。ものごとをあるがままに見ているのだから。
お釈迦様は明晰に見ました。
お釈迦様の教えはいつでも真理であり、けっして時代遅れになりません。このことはけっして変わりません。現代においてもお釈迦様の教えは真理であり、まったく変わっていないのです。
お釈迦様の教えを深く心に留めておくことによって、私たちはやすらぎと幸福が得られるでしょう。
お釈迦様の教えには「無我」(実体はない)の冥想があります。
どんな人も「私」に執着していますから、この教えを聞いたほうがよいでしょう。「私」に執着することから苦しみが生じます。それゆえ、この「無我」ということを、よく観察すべきなのです。
今日、ある女性が 「怒りにどう対処したらいいでしょうか?」 と私に質問しました。
私はこのように答えました。「今度あなたが怒ったとき、目覚まし時計のスイッチを入れて、あなたの前に置いてください。そして二時間たったら、怒るのをやめてください」と。
怒りが本当にあなたのモノなら、怒りに向かって「二時間で消えなさい!」と言えば、怒りは消えるでしょう。しかし、怒りはあなたのモノではありませんし、そのように命令しても無駄なのです。二時間たってもおさまらないときもあるでしょうし、一時間でおさまるときもあるでしょう。
怒りを自分のモノとして固執することは、苦しみを引き起こします。怒りが本当にあなたのモノなら、怒りはあなたの言うことをきくでしょう。言うことをきかないなら、それは単なる一時的な現象にすぎないということです。それに引っかからないでください。嬉しくても悲しくても、それに引っかからないように。好きなことにも嫌いなことにも引っかからないように。どれもすべて現象なのだから。
皆さんは怒ったことがあるでしょうか?
怒ったとき、どんな感じですか?
いい気持ちですか、いやな気持ちですか?
いやな気持ちなら、怒りを捨てたらどうでしょうか。
なぜずっと持ち続けるのでしょうか?
そんなものにしがみついているのに、どうしてあなたは賢者だとか知識人だと言えるでしょうか。
生まれてから、心は何度怒ったでしょうか?
怒りは家族げんかを引き起こすこともありますし、一晩中泣かせることもあるでしょう。
それでも私たちは怒り続け、怒りにしがみつき、苦しんでいます。
怒りは苦しみだと気づかないかぎり、いつまでも苦しむでしょうし、怒りがおさまる見込みもないでしょう。
輪廻転生の世界はこのようなものです。
このことをあるがままに理解するなら、問題は解決できるでしょう。
「これは私ではない」 「私のものではない」 と観察することほど、苦しみを乗り越えるのに良い手段はありません、とお釈迦様は教えられました。無我の観察が、苦しみを乗り越える最高の手段なのです。しかし、私たちはたいてい「無我」ということに注意を払っていません。苦しみが生じたとき、そこから何も学ばずに、ただ嘆いているだけです。なぜ、そうなのでしょうか? 私たちはこのことを深く観察し、一切知者であるお釈迦様にたいする敬意を育てるべきでしょう。
皆さんの中には、これがお釈迦様の教えであるということがわからない方もいらっしゃるかもしれません。よく注意してください。私は経典に書いてあることをそのまま話しているのではなく、言葉を変えて話しています。多くの方は経典を読んでいますが、真理は理解していません。今日は、経典の外側の教えをお話いたします。しかし、ここにいる皆さんが全員いっせいに理解できるわけではありません。要点を聞きのがしたり、理解できなかったりする方もいらっしゃるでしょう。
たとえば二人がいっしょに歩いていて、アヒルとニワトリを見るとします。一人は、「なぜニワトリはアヒルじゃないの? なぜアヒルはニワトリじゃないの? 」と言います。その人は、ニワトリがアヒルであってほしい、アヒルがニワトリであってほしい、と思っているのです。でも、そんなことは不可能です。もしその人が、ニワトリがアヒルであってほしい、アヒルがニワトリであってほしい、と思い続けたとしても、そうなることは絶対ありません。なぜなら、ニワトリはニワトリであって、アヒルはアヒルだからです。このように見ないかぎり、その人は苦しみ続けるでしょう。
もう一人は、ニワトリはニワトリ、アヒルはアヒルと見るかもしれません。しかし、それも別にどうということはありません。正しく見ていますから、問題は起こらないのです。
でも、アヒルがニワトリであってほしい、ニワトリがアヒルであってほしいと見るなら、苦しみ続けるでしょう。
これと同様に、「無常の法則」とは、一切のものごとは無常であるということです。このように見る人は、心にやすらぎがあり、なんの対立も生じません。しかし、ものごとが永遠であってほしいと望む人は、苦しむでしょう。無常が現れるたびに、失望することになりますし、心に対立が生じます。不安で夜眠れないこともあるでしょう。この「ものごとが永遠であってほしい」と考えることが「無明」(無常を知らないこと)であり、この「無明」をお釈迦様が発見され、教えられたのです。
真理を知りたいとき、どこを見ればいいのでしょうか?
身体と心を見るのです。
本棚の本を見るのではありません。真理を本当に見たければ、自分自身の身体と心を見つめなければならないのです。身体と心、この二つだけです。心は肉眼で見えませんから、「心の眼」で見なければなりません。真理を悟るには、まずどこを見るべきかということを知る必要があるのです。
身体の真理を知るには、身体を見なければなりません。
では、どうやって身体を観察するのでしょうか? 心で観察するのです。身体と心以外どこを見ても真理は見えないでしょう。なぜなら幸せも苦しみもまさに身体と心で生じるのだから。幸せが木から生じたのを見たことがあるでしょうか? 川から生じたり、天気から生じたりしたのを見たことがあるでしょうか? 幸せも苦しみも、自分自身の身体と心から生じる感覚なのです。
したがって、お釈迦様は、自分の身体と心を理解するようにと教えられました。真理は自分自身の身体と心にあり、まさにここを観察しなければなりません。皆さんの先生は本を読みなさいと言うかもしれません。本の中に真理があると思うなら、真理は決して理解できないでしょう。本を読むときは、本の内容を自分の心で観察しなければなりません。そうすれば、真理が理解できるでしょう。
真理はどこにあるのでしょうか?
真理は、私たちの身体と心にあります。
身体と心を観察することが、冥想の本質なのです。
身体と心を観察するとき、智慧が現われるでしょう。智慧があれば、何を見ても真理が見えます。常に無常(anicca)・苦(dukkha)・無我(anatta) が見えるのです。Anicca は無常ということです。Dukkha は苦のことで、ものごとは無常であるのに、その無常なるものに執着すると、苦が生じます。なぜならものごとはanatta ――「私」のものではありませんし、「私」ではないからです。
しかし、私たちはこの無常・苦・無我を見ていませんし、いつでも「私」とか「私のもの」と見ているのです。
それから、一時的に社会で決められたこと(世俗諦)も見ていません。世俗諦を理解すべきです。たとえば、こちらにいらっしゃる皆さんには名前があります。その名前は、皆さんが生まれたとき持ってきたものでしょうか? あとで付けられたものでしょうか?
わかりますか?
名前は、世俗諦です。
世俗諦は役に立つでしょうか?
もちろん役に立ちます。たとえば、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんの四人の男性がいるとしましょう。お互いにコミュニケーションをとり、いっしょに生活するためには、便宜上、それぞれみんなに自分の名前がなければなりません。Aさんに話したいときは、「Aさん」と呼び、そうすればAさんが来るでしょう。Aさん以外の人は来ないのです。これは世俗諦の便利なところです。
しかし、このことをさらに深く観察するなら、そこには「誰もいない」ということがわかるでしょう。いわゆる世俗諦を超えたところが理解できるのです。あるのは、ただ地水火風の四大元素のみ。身体にあるのは、これだけなのです。
でも、私たちは「私」にたいして強く執着しているため(attavaadupaadaana)、身体を地水火風と見ることができません。もし明晰に見るなら、「私という実体はない」ということがわかるでしょう。
硬さの部分が「地」の要素であり、液体の部分が「水」の要素、熱の部分が「火」の要素、動く部分が「風」の要素です。このように分析して見るなら、あるのは地水火風だけだということが理解できるでしょう。どこに人(私)という実体があるでしょうか? そんなものはないのです。
そういうわけでお釈迦様は、
「これは私ではない。私のものではない、と観察することほどレベルの高い実践はない」とおっしゃったのです。あるのはただ一時的に現れている現象のみです。もしこのすべてを明晰に理解するなら、心は穏やかになるでしょう。今の瞬間に「無常」ということと、「ものごとは私ではない、私のものではない」ということに気づくなら、私や私のものと思っているものがなくなっても、落ち着いていられるでしょう。なぜなら、もともとそれらは私のものではありませんし、誰のものでもないからです。単なる地水火風の要素にすぎないのです。
このことを見るのは難しいことですが、たとえ難しくても私たちにできないことを言っているわけではありません。このことを見ることができれば、心は穏やかになり、怒ることも貪ることも愚かさも少なくなるでしょう。心には常に真理があるのです。嫉妬したり恨んだりすることもなくなります。なぜなら、どんな人も単に地水火風だけなのだから。これら以外のものはほかにありません。この真理を受け入れたとき、「お釈迦様の教えは真理である」ということが理解できる
でしょう。
「お釈迦様の教えが真理である」ということが理解できたなら、それほど多くの先生のところへ行く必要はないでしょう! 毎日毎日先生の話を聞く必要もないでしょう。真理を理解したなら、そのときはただ自分に必要なことをするだけです。
お釈迦様の教えを人々に教えるのは難しい。なぜかといいますと、人々は教えを受け入れず、教えや指導者と論争するからです。あるいは、指導者の前ではいい格好をするのですが、指導者のいないところでは泥棒するのです!
人々に教えるのは本当に難しい。タイの人たちも同じです――だから、多くの指導者を必要としているのです。
気づいてください。
気づかなければ、真理は見えないでしょう。注意深く教えを聞き、考察してください。この花はきれいでしょうか? この花に醜さは見えるでしょうか? 何日くらい、きれいに咲いているでしょうか? これからどうなるでしょうか? なぜ枯れるのでしょうか? 三、四日後には捨てることになるでしょう。そうではないでしょうか。花の美しさはすっかり消えてしまうのです。
人はきれいなものや美しいものに執着しています。もし何かがきれいだと思うなら、そう見る人が対象にすっかり引っかかっているということです。お釈迦様はこのようにおっしゃいました。「きれいなものはただきれいなものとして見、それに執着すべきではありません。楽しいと感じるなら、ただ楽しいと見て、それに引っかかるべきではありません」
きれいということは確かではありませんし、美しいということも確かではありません。確かなものは、ありません。この世の中に確かなものなどないのです。これが真理です。真理以外のものは、美しさのように変化していきます。真理はただ一つ、美しいという状態が絶えず変化しているということです。もし私たちが何かを見て美しいと思うなら、その美しさが消えたとき、心も美しさをなくすでしょう。きれいなものがきれいでなくなると、心もきれいさを失うのです。きれいなものがなくなったり、壊れたり、傷ついたりすると、私たちは苦しみます。なぜならそれらを「自分のもの」と考えて、執着しているからです。お釈迦様はこう説かれました。「『ものごとは単に組み立てられて成り立っているものである』と見なさい」と。いま美しく咲いている花も、しばらくすると枯れます。このことを理解することが、智慧なのです。
そういうわけで、私たちは「無常」ということを理解しなければなりません。何かにたいして「きれい」と思うなら、そのときは「そうではない」と自分に言うべきですし、何かにたいして「汚い」と思うなら、そのときも「そうではない」と自分に言うべきです。常にこのようにものごとを見て、観察するようにしてください。そうすれば、現象のなかに真理が見え、不確かなもののなかに確かなものが見えるでしょう。
今日、私は「苦しみ」と「苦しみの原因」と「苦しみの滅」と「苦しみを滅する道」をどう理解するか、ということについて話しています。
苦しみを知ったなら、苦しみを捨てるべきです。
苦しみの原因を知って、苦しみを滅するべきなのです。
苦しみを滅するために、実践してください。
無常・苦・無我を理解することで、苦しみは滅するでしょう。
苦しみが滅したら、どうなるのでしょうか?
私たちはなんのために実践しているのでしょうか?
「捨てる」ために実践しているのであって、何かを得るために実践しているのではありません。
今日の午後、ある女性が「自分は苦しいです」と私に言いました。私は彼女に「あなたはどうしたいんですか」と聞いたところ、彼女は「悟りを得たい」と言いました。私はこう言いました。「悟りを得たいと思っているかぎり、けっして悟ることはできませんよ。何も得ようとしないでください」
苦の真理を理解したとき、私たちは苦を捨てます。
苦の原因を理解したとき、苦の原因をつくることはもうしませんし、代わりに苦を滅する道を実践するでしょう。苦を滅する道を実践するということは、「これは私ではない」「私のものでも、他のものでもない」と観察することです。このように観察することで、苦は滅するでしょう。これは、ゴールに到達して終わるようなものです。これが「滅」の状態です。
言い換えますと、進むことも苦ですし、後退することも苦ですし、止まることも苦です。進まず、後退もせず、止まることもない……何か残っているでしょうか? 身体と心の苦は、この時点で終わるのです。これが苦の滅です。理解するのはむずかしいですね。この教えを常に真剣に観察するなら、現象を乗り越えて悟りに到達し、「滅」という状態になるでしょう。これがお釈迦様の究極の教え、つまり解脱です。お釈迦様の教えは、すべてを捨てたところ(解脱)で修了するのです。
今日、私は皆様とご住職様に法話をしました。私が話したことの中に何か間違いがありましたら、お許しください。でも、法話が正しいか間違っているかとすぐに判断しようとせず、まず法話を聞いてください。たとえば、私が皆さんに「これはすごくおいしいですよ」と言って果物をあげるとしましょう。皆さんは私の言ったことをちゃんと聞くべきですが、信じてはなりません。なぜなら、まだ味わっていないのだから。
私の法話も同じです。皆さんが、私があげた果物が甘いか酸っぱいかを知りたければ、切って、ご自分で味わってみる必要があります。そうすれば、甘いか酸っぱいかがわかるでしょう。実際にご自分で試して実践してみたとき、私の法話を信頼することができるのです。この果物(法話)をすぐに捨てないでください。持って、味わって、自分で経験するのです。
皆さんもご存知でしょうが、お釈迦様には師匠がいませんでした。かつて、ある修行者がお釈迦様に「あなたの師匠はだれですか」とたずねたとき、お釈迦様は「私に師匠はいません」と答えられました。その修行者は頭を横にふりながら去って行きました。 (*注) お釈迦様は率直すぎたのかもしれません。お釈迦様は、真理を知らない人や受け入れない人にも真理を説いていたのです。
私が皆さんに、私の話をすぐに信じてはいけないと言ったのは、お釈迦様が次のように教えられたからです。
「明晰に理解していないのに、他人の話をすぐに信じてしまうことは愚かである」と。
それで、お釈迦様は「私に師匠はいません」とおっしゃったのです。
これは真実です。このように正しく見るべきでしょう。しかし、もし皆さんがこの意味を取り違えてしまったら、皆さんの先生にたいして敬意を払わなくなってしまいます。皆さんは「私に先生はいない」などと言わないようにしてください。善悪を教えてくれる先生の話をよく聞き、信頼し、そして自分自身で教えを実践して試すことが大切なのです。
今日は私たちにとって幸福な日です。私は皆さんと皆さんの先生にお会いすることができました。私たちは遠く離れたところに住んでいますので、このように会えるとは誰も思わなかったでしょう。会うことができたのは、何か特別な理由があるにちがいありません。お釈迦様は「生じたものには原因がある」と教えられました。このことを覚えておいてください。何か原因があるのです。おそらく私たちは前世で同じ家族の兄弟姉妹だったかもしれません。その可能性があります。他の先生はこちらに来ませんでした。来たのは、私です。どうしてでしょうか? 何か原因があるのです。さらに、今の瞬間も原因をつくっています。将来起こりうる原因をつくっているのです。
私は皆さんにお釈迦様の教え(真理)を残して行きます。皆さんが怠ることなく精進しますように――。真理を実践することほど優れた実践はほかにありません。真理は世の中の生命を支えています。人は真理を知らないために混乱しています。もし真理を理解するなら、心は充たされるでしょう。
今日、私は皆さんと皆さんの先生に真理の実践に関してお話する機会が持てたことを嬉しく思います。皆様が幸せでありますようにと心よりお祈りいたします。
明日、私はここを去ります。どこへ行くかはわかりません。来たら、行かなければなりませんし、出会ったら、別れなければなりません。これはごく普通のことであり、世の中のあり方です。世の中がいろいろ変化しても、皆さんは喜んだり怒ったりすべきではありません。楽しみがあれば、苦しみもあります。苦しみがあれば、楽しみもあります。得たら失い、失ったら得ます。世の中はこのようなものなのです。
お釈迦様の在世中、お釈迦様にたいして不満を抱く弟子たちがいました。というのも、お釈迦様は弟子たちに「怠らずに精進しなさい」と教えていましたから、怠け者の弟子たちはこのように言うお釈迦様を怖れ、ひどく嫌っていたのです。
お釈迦様が亡くなったとき、あるグループの弟子たちは「自分たちを導いてくれるお釈迦様がもういない」と嘆き悲しみました。彼らはまだそれほど智慧が育っていなかったのです。別のグループの弟子たちは「すべきこととしてはならないことを説くお釈迦様がいなくなった」と喜び、ほっとしました。また別のグループの弟子たちは、「生まれたものは自然の結果として消えていく」と冷静に真理を見ていました。このように、三つのグループがあったのです。皆さんはどのグループに共感できるでしょうか?
お釈迦様が亡くなったときに泣いた一番目のグループの弟子たちは、まだ真理を悟っていませんでした。二番目のグループの弟子たちは、自分たちがやりたいことをお釈迦様がいつも禁じられていたため、お釈迦様にたいして不快感を持っていました。彼らはお釈迦様に注意され叱られるのを怖れて生活していました。それでお釈迦様が亡くなったとき、ほっとしたのです。
これはお釈迦様だけに限ったことではありません。現代でも同じようなことがあります。こちらのお弟子さんたちが、お寺のご住職(先生)にたいして不快感を持っていることもありうるのです。表面には出さないかもしれませんが、心の中で反感を持っているかもしれません。煩悩のある人たちがそのような感情を持つのはごく普通のことです。お釈迦様にたいしてでさえ、反感を持つ人がいたのですから。私にも、私にたいして反感を持つ弟子たちがいます。私は彼らに悪い行為をやめるように言いますが、彼らは悪い行為が好きで、やめようとしません。彼らは私のことを嫌っています。このようなことはしょっちゅうあるものです。
智慧のある皆様が、お釈迦様の教えをしっかり実践することができますようにとお祈りいたします。
(この章終わり)
(*注) お釈迦様が悟りを開かれて間もなく、ベナレスへ向かって歩いているとき、一人の修行者が近づいてきて、このように言いました。「友よ、あなたの感官は澄み切っている。皮膚の色は清らかで美しい。あなたの師匠はだれですか?」と。お釈迦様は「私に師はなく、正覚者である」と答えました。修行者は納得できず「そうかもしれない」と頭を横にふりながら去って行きました。
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