(私感です。)
「生かされている」とは、
見えない何かの力に、生かされているのでは無く。
目の前の事(この状態)に最善を尽くす。と言う事です。
今、この瞬間、この与えられたこの状態、この目の前の状況に、不満、怒りを捨て、理性と慈しみで、確り最善を尽くして行動する事です。
与えられた状態、身体(不自由でも)、仕事(理不尽な処遇でも)、人間関係(いじめられても、嫌いでも)、家(荒ら屋でも)、食事(粗食でも)、勉強(苦手でも)、家庭(歪んでいても)、排便さえも、睡眠にも最善を尽くして行動す事です。
目の前の状況の、不満、怒り、悲しみ、絶望さえも捨て、心を穏やかにし、理性と慈しみを持って、与えられたこの中で最善を尽くして行動する。
「生かされている」とは、そういう事だと思います。
目の前の事、この状態に最善を尽くす。と言う事です。
見えない何かに生かされている。は他力であり、欲です。
それは、捏造であり、無明であり、執着です。
その欲を捨てて最善を尽くして行動した時に、真理が見えると思います。
目の前の事に最善を尽くす事で、初めて周りの生命から、生きる道の手助けをしてもらえるのです。
また、理性と慈しみが無ければ最善にはなりません。
人格者とは、理性と慈しみを備えた能力がある人の事です。
方法は、
24時間絶え間なく、心と身体を観察し、
感情で心が揺れた瞬間に揺れ(感情)を捨てる。(心の波を立てない)
即ち、無明を叩き潰して前に進む。
叩き潰せなければ、無明を引きずって、前に前に進む。(精進)
しかありません。
これは、Appamādaであり、
仏道であり、
生(活)きる、です。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。