(安らぎへの道は険しくない)より
http://www.j-theravada.net/howa/howa165.html
「すぐ解脱に達しますよ」と釈尊に言われても、実際に、解脱に達する人は少ないのも事実です。
それは人々の理解能力の問題です。
生きることは苦である、という真理を認めたくはないのです。
何を言われても、生きることでいろいろ楽しみがあるのではないかと、思っている。
それで、生きることに執着するのです。
執着を捨てることが、解脱です。
「執着を捨てたくないが、ブッダの教えはありがたい。
実践したい」と言っても矛盾があります。
ブッダの説かれた「生きることは苦である」という真理を否定しているのです。
その真理を否定すると、「解脱は最高の幸福である」という真理も否定しているのです。
冥想をしてもサマーディに達しない、気づきの実践をしても解脱に達しないケースが、釈尊の時代でもあったのです。
釈尊がその理由を解明するのです。
サマーディに達するためには、五欲を捨てなくてはならない。
解脱に達するためには、一切の物事に対する執着を捨てなくてはならない。
しかし、生きること(五蘊)で、楽しみがあるのだと思うと、捨てられないのです。
ですから修行者は、五蘊から得られる利点は何なのか、
五蘊により生じる欠点は何なのかと、
ありのままに観察して発見する必要があるのだと説かれています。
生きることで、見る楽しみ、味わう楽しみなどがあります。
それは、その情報に触れて生れる感覚は楽だと理解したからです。
その感覚も、情報も、無常で一時的です。
感覚に執着すると、限りのない苦しみが付いてきます。
このような理解があったうえで、冥想実践すると、間もないうちに解脱に達するのです。
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