2012年1月30日月曜日

捨。中道とは、揺らがない心。「捨」

(根本仏教講義→8.苦集滅道 (2)仏陀の苦行から悟りまで)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi39.html

中道の出発点は、何物にも囚われない心です。

≪抜粋≫
■お釈迦様が真理に出会うまで■
苦行の未、お釈迦さまは、とにかくこんなにからだを痛めつけても仕方がないのだと思いました。また逆に、贅沢しても仕方がないとも思いました。からだをいかにきれいに着飾ってもからだというものは、死んで、そして腐っていく。死んだら焼いてしまいます。いくら母親でも息子が死んでその遺体をずっととっておくことはしません。死んでしまったら捨てるしかありません。死んで捨ててしまうものに、贅沢させる必要はない、また痛める必要もない…。

そして、問題は心なのだということを知り、お釈迦様は心を清らかにする「中道」という方法を発見されたのです。
いわゆる何ものにもとらわれない、
食べ物にもとらわれず適度に食べる、人の言うこともそのまま信じず、自分で考えて判断する。言葉をしゃべるときは、必要な言葉を選んで話す。なんでもかんでも、中道にもっていく。それで悟りを開かれたのです。中道を悟ったのは1日だったという話です。

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私の所感です。
中道とは、揺らがない心。 即ち「捨」だと思い文献を調査しました。
結果、上記の長老の中道の出発転は、何物にも囚われない心です。 を見つけて、間違いでは無かったと思いました。
何故なら、囚われない心とは、揺れない心であるからです。
心が揺らがないとは、捨の実践であり、理性であり、Appamādaです。

後日)
下記のアーチャン・チャー長老の法話を読んで、私が理解した捨てる。は、正しい事が解りました。

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アーチャン・チャー長老 書籍:手放す生き方。 より

中道:(P27)
ブッダは、私達が「欲におぼれる道」と「苦行を行う道」と言う二つの両極端な道のどちらを歩む事も、良しとしていませんでした。  そうでは無く、ブッダは私達に「只、快楽に気付きなさい」と説いたのです。  怒り、不安、不満は、修行者の道では無く、俗世の人間の道です。  心の静まった人は、左脇に執着を捨て、右脇に恐れや嫌悪を捨て、正しい実践の道である中道を歩むのです。

実践の道を歩む人は、中道に従わなければ成りません。
それは、「私は、快楽にも苦痛にも興味を持ちません。 私は、それを捨て去ります。」と、言う事です。

ブッダが初転法輪を説いた時、これら二つの極端さに付いて語られました。
何故なら、ここに私達の執着の源があるからです。

幸福へ欲望が片方から蹴り飛ばし、苦しみや不満がもう一方から蹴り飛ばす。
この二つは、いつも私達を取り囲んでいるものです。
ですが、私達が中道を歩む時、貴方は、それらの両方を捨て去るのです。

中略

ブッダは、私達に、その極端さを捨てる事を説きます。
これこそが、正しい実践の道であり、生死から脱する道なのです。

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